こんにちは。大阪市の税理士、山本健介です。
ふと、自分の人生を振り返ってみようと思い、子どものころに経験したことを記憶のままに書いてみました。
それを何回かに分けて、このブログに掲載してみたいと思います。
このブログを通して、自分がどんな人間か、自己紹介することができればうれしいです。
いつまで続けられるかもわかりませんが、もしよければご覧ください。
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生まれ育ったのは兵庫県加古川市。明石市出身で旅行会社に勤めていた父と、名古屋出身でバスガイドをしていた母の間に長男として生まれた。2歳下に弟がいる。
子どもの頃、足は遅かったし、痩せて色白でスポーツが得意ではなかった(肌が白くて目が大きいのでパンダみたいだと言われていた)。後から思うと3月生まれで同学年の子たちより幼いだけだったのかもしれない。でも当時抱いた「自分は周りの同級生より少し劣っているのかな」という劣等感はその後大学生になるまで消えなかった。
一方で子どもの頃、小学生の頃はやり過ぎる性格で、遊んでいるうちに年下の子に石をぶつけてケガをさせたこともある。別の子を畑に落としてしまったこともある。どちらもその子のお母さんからめちゃくちゃ怒られた。その子たちに申し訳ないと思うし、母親を謝らせてしまったことも申し訳ないと思う。
小学1年生から地区少年団に参加して、毎週末近くのグラウンドでソフトボールをしていた。飛んでくるボールが怖かったし、監督やコーチ(友達の父親たち)も怖かったのでとても嫌だった(ちなみに、監督はそのソフトボールに対して異常に熱心で子どもたちにも本気で怒る人だった。ボランティアでやっているのになぜあそこまで真剣になれたのだろう。大人になった今でも自分にはよくわからない)。
嫌々で参加していたので、たいして上手になるはずもない。僕の小学生時代の通算打率は、高学年のときだけで計算してもたしか.143くらいだったはずだ(なぜか正確に覚えている)。1試合だけ、なぜか当たりの日があり、3安打か4安打したまぐれの試合があった。その試合がなければ打率0割台だったんじゃないだろうか。ちなみに、その試合の次の日の朝、登校中に周りのチームメートたちが「ケンスケすごい。あいつはそのうち4番になるんじゃないか」とうわさしてくれて嬉しかったのを覚えている。もちろんその後に僕が4番になることはなかった。
いや、すぐに訂正。4番になったのだ、実は。Aチーム(1軍)ではなく6年生のときにBチーム(2軍)で。
ちなみに守備位置はセンターだった。5年生くらいの頃から足が速くなり始めて守備範囲が広かった。あと、肩は弱かった(筋トレきらい)がコントロールはよかったので、バックホームで二塁ランナーを刺したことが2回ほどある。
なぜ足が速くなったのか。小学4年生の3学期に、周りの友だちが参加しているという理由で陸上部の練習に参加し始めたのだ。イシゲ先生という毎年高学年を担当する強面の先生にお願いして、毎朝始業前に小学校のグラウンドをぐるぐる走っていた。
最初はソフトボールの監督たちも、体力がつくという理由で陸上部への参加を推奨していた。そうすると、僕たちが楽しそうに朝練に参加しているのを見た同じ地区の同級生たちがほぼ全員陸上部に参加するようになった。そうなると、陸上部の試合は土日なので、試合の日はほぼ全員がソフトボールの練習を休むということになってしまい、前言撤回、5年生の終わり頃になって、監督は子どもたちに究極の二択を迫ってきた。
「お前ら、陸上部やめろ。やめへんかったらBチームに落とす」